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小林秀雄対話集 / 小林 秀雄





 この本は、日本近代批評の父、小林秀雄による 坂口安吾、正宗白鳥、青山二郎、大岡昇平、永井龍男、河上徹太郎、三島由紀夫、江藤淳、中村光夫、福田恆存、岩田豊雄、田中美知太郎 の十二名との対談を文庫化したものだ。見ての通り対話の相手は蒼々たる顔ぶれで、数十年も前に行われたものばかりだが、どの対話も未だ全く古びた印象を与えない。その中でも、坂口安吾、正宗白鳥、三島由紀夫との対話が非常に印象深かったが、今回は小林秀雄と正宗白鳥の対話について紹介したいと思う。

 対話のテーマはズバリ「大作家論」。と言っても、「大作家とは何ぞや」ということについて詳しく論じられているわけではなく、文学や小説家ということいったことに関する二人の考えが、つれづれなるままに述べられているに過ぎないが、それが非常に面白い。例えばこんな感じだ。


小林 元来純文学なんて言葉は国際的辞書にはない。日本の方言です。小説は浅草で売れて然るべきものではないのかしらん。
正宗 それは昔からそうだ。小説はそういうものだからな。
記者 「純文学」が浅草で売れるようになっていい……。
小林 いいに決まっていますよ。小説という形式はいい意味でも悪い意味でも、大衆的な表現形式であることが根本だと僕は思っている。小説の形式が、非常に高級な表現形式として現れたのは、外的な必然によるのです。つまり内的には偶然なことだ。作家当人が知らんだけの話だ。



 浅草で売れるとは、大衆に親しまれるということだろう。時代を感じる言い回しだ。

 ところで皆さんは「純文学」という言葉をご存知だろうか。言葉は聞いたことがあるが、難しい、堅苦しい、取っ付き難いといったイメージがあるだけで、実際に純文学とはどういったものなのか説明できる人は少ないと思う。何を隠そう、僕も実は純文学とは何なのか良く分かっていない。(誰か説明してくれー!)
 日本で最も認知度の高い文学賞といえば、芥川賞と直木賞だろう。芥川賞は純文学に与えられる賞で、直木賞は大衆文学を対象としている、ということになっている。これだけではまだピンとこない人も多いと思うので具体例を挙げると、最近芥川賞を受賞した作家でおそらく最も認知度が高いのは、130回にW受賞してマスコミでも大きく取り上げられた、カイワコちゃんの綿矢りさと金原ひとみだろう。一方、直木賞作家で今もっとも有名なのは、原作が次々と映像化されている東野圭吾だろう。つまり、「蹴りたい背中」や「蛇にピアス」は純文学で、「流星の絆」や「探偵ガリレオ」は大衆文学ということになる。まだ分からない人もいると思うので、さらに具体例を挙げると、村上春樹や村上龍は純文学作家、伊坂幸太郎や宮部みゆきは大衆文学作家ということになっている。
 ここまで来てもまだ両者の違いに納得できない人がいるかもしれないが、それも無理は無い。というのも、純文学と大衆文学の間に明確な線引きなどできないからだ(と僕は思っている)。にも関わらず、純文学作家と大衆文学作家、というよりむしろそれぞれの著作の愛読者の間には何故かもやもやとした対立というか、お互いに対する敵対心のようなものがある。何故だろうか。

 対話でも述べられているように、実は純文学に対応する英語は無い(他の外国語のことは知らん)。純文学とは日本独自の概念で、グローバルな言葉ではないのだ。といっても、外国にもムズカシイ小説とカルーイ小説はもちろんあるわけだが、日本のように両者の間に明確に線引きがされ、時にはお互い見下し合い、いがみ合うといったことは無いのではないだろうか。つまりこの対立は日本に固有の現象である可能性が高い。
 二人の対談に戻ってみよう。


正宗 中国では小説というものは昔は、下等なものだった。だから、作者は匿名になっていた。詩を作るのはたいへん偉いことだけども、小説というのはみんなの、つまり民衆の読み物だからというので、下等なものとなっていて、作者は名を出さなかったものだ。
小林 昔はどこの国でも詩の方が権威を持っていたでしょう。近代になって小説が非常に盛んになってきても、フランスなんか詩の伝統的権威というものは、なかなか強く持続しているらしいんです。少くとも文学上の革新の気運は詩人によって作られることの方が多い。二十世紀になってもそういうことがある。これは日本の近代文学史にはないですね。西洋文学が輸入されて、日本の伝統的詩人は、伝統的形式のなかでもがいてみたがどうにもならぬ。西洋風の詩を新しく作ろうという企ても詩というものの本来の性質上うまく行かぬ。詩人の権威は全く小説家の手に渡った。文学上の革新も革命もみんな小説家がやらなければならないことになった。つまり、元来が大衆的な表現形式のなかで、先端を切る革新的な仕事をしなければならなくなった。それが日本の純文学というものの正体だ。純文学の文壇性、非社会性の正体だ。でなければ、純文学と大衆文学のあんな激しい対立、外国の近代小説には見られない対立を考えることはできないですよ。

<中略>

小林 僕は、またこんなことも考えているんです。例えばフランスの近代文学史を読むでしょう。するとフランスの近代社会というものが、ちゃんとわかる。ところが、日本の近代文学史をうまく書いたところで、日本の近代社会はわかるとは限らん。わかりゃせんです。日本では近代文学というものが社会一般の動きのなかに溶けていなかったからですよ。外国文学という一万トンの汽船が、やくざ桟橋についた。文士達は乗船した。なるほど文学者は社会の先端を切ったのです。だけどそれは社会人としての地位を放棄してです。文学的な、余りに文学的な文学者となることによって、社会の先端を切った。しかも表現形式として選んだものは、元来、大衆的な社会的なものでなくてはならん小説という形式だった。小説家の日本独特のタイプが生まれて来たのもムリないですなあ。例えば宇野浩二さんみたいな---人生は何も彼もわかって了ったが、文学だけはわからんという……。



 つまり、こういうことだ。

1.本来小説なんてものは詩なんかに比べて、ずっと大衆的な表現形式なのさ。
2.だけど日本では小説家が詩人に代わって時代の先端を走らざる得ない境遇にあった。そして実際にそうした。
3.前衛と大衆性の両立は困難だ。前衛的になるべくしてなった小説家は当然の帰結として社会性を失っていった。
4.そうして、非社会的で特異な存在となった小説家が書く文学が、何を隠そう「純文学」さ。


 世の中は今空前の出版不況らしい。本が、特に純文学というジャンルの小説が全く売れないのだ。僕の好きな小説の多くはこのジャンルに属しているので、このことは個人的には大変残念に思うし、より多くの人に僕の好きな小説を読んでほしいと思っている。しかし、社会との繋がりを切断して、自己満足に陥る危険性が最も高いのも、このジャンルの小説の特徴だ。大衆に媚びることと大衆と繋がることは同じではない。しかしまた、大衆に媚びずに大衆と繋がること、これは、容易ならざることだ。だからこそ、それらを両立した小説は価値がある。どちらか一方ではいけないのだ。

 明治以来、今日我々が使う新しい日本語を作ってきたのは彼等文学者達だ。しかしながらその不幸な境遇ゆえに、純文学という訳の分からない造語や、閉鎖的な文壇という弊害が生まれ、一部の人は文学を神棚に祭り上げてしまった。
 少々過激な意見を言えば、小説には純文学も大衆文学もない。あるのは文学と紙屑だけだ(僕は紙屑に存在価値がないと言っているのではない。かく言う僕も、紙屑愛読者だ。しかし、あれらの存在価値は文学のそれとは異なると思う)。では純文学といわれるものが文学で大衆文学が紙屑なのか。あるいは、岩波文庫が文学でケータイ小説が紙屑(というより屑データ?)なのか。もちろんそうではないことは明らかだ。
 大切なのは、先入観や、周りの意見や、権威や、出版社の宣伝文句に惑わされることなく、自分の頭で小説を読むことだ。これは実に難しい。わからなければ誰でもエライ人の意見や解説がほしくなるものだ。しかし、その解説が間違っているとか、そのエライ人がそもそも文学とは正反対の場所にいる人かもしれないといった想定は、僕等一般人にはなかなか働かない。 これは、文学に限らず、あらゆることに当てはまる問題ではないだろうか。

 小林秀雄は何かの専門家でも学者でもなく、生涯ただの批評家だった。だからこそ、自分の頭だけで徹底的に物事を考えた。そうでなくては批評家の存在価値などないからだ。(←これは現代の批評家の皆さんに考えてもらいたい。批評家はただの物知りや雑学王では困るのだ) そしてそれゆえに、過たない。文学に限らず、あらゆるものに対するこの態度こそ、情報の海の中に生きる今日の僕等が最も見習うべきものではないか、この本を読みながら、僕はそんなことを考えていた。


そうそう……、どうでもいいが正宗白鳥(まさむねはくちょう)って名前かっこよすぎ!!

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