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そのことのあれこれを語る前に、僕は少しだけフェミニズムについて話したいと思う。
「フェミニズム」という言葉を聞いて、もしあなたが反射的な拒否反応を示したとしても、どうか最後まで読んでほしい。
この国ではフェミニストというと、テレビ番組で昔かたぎの男性相手に大声を張り上げる人や、年収も社会的地位も男性に負けないキャリアウーマンになることを指南する書籍を執筆する人や、村上春樹の小説「海辺のカフカ」で小さな図書館に女性専用トイレを設置することを執拗に要求する市民活動家をイメージするが、僕がこれから話そうと思うことは、それらの人たちとは何の関係も無い。
それから、フェミニズムに熱心な女性活動家の方々にとっては、僕がこれから論じる内容はまったくの期待はずれとなるだろう。
なぜなら僕は、今まで一度としてフェミニズムを熱心に勉強したことも、それに関連する書籍を真剣に読んだことも無いのだから。
僕はこれから、心から尊敬し敬愛する小説家、アーシュラ・クローバー・ル=グウィン(Ursula K. Le Guin)女史のある演説を紹介したいと思う。(彼女が「ゲド戦記」の著者であることを知っている人はたくさんいても、彼女が有名なフェミニストであることを知っている人はそう多くないと思う。)
その演説とは、ミルズ・カレッジという全米でも屈指の名門女子大の卒業式で、卒業生に彼女が送った「左ききの卒業式祝辞」と題されたものだ。
左利きという比喩が何を意味するか、おそらく容易に想像できると思う。左利きとは、当然、右利きでないということだ。そして、この世の中は、右利きの人のために作られている。
ただし、もし「右利き」=男 「左利き」=女、とか、「右利き」=成功者 「左利き」=失敗者とか、「右利き」=社会的強者、「左利き」=社会的弱者、というように単純に当てはめてこの文章が読まれるのであれば、(それ自体は完全に間違いとはいえないのだろうけど)おそらくそれは、ル=グウィンにとって不本意なことだろう。
演説で述べられていることは、単純なようで、実は非常に込み入っていて難解極まりない。僕は今まで10回以上読んだが、いまだにその大部分が理解できないでいる。(逆に言えば、読み返すたびに新たな発見の喜びを味わう機会に恵まれている)
一度読んでわからなければ、二度読んでほしい。二度読んでわからなければ、もう一度。
彼女の言葉には、それだけの価値があるはずだ。
彼女の演説は実に美しく、一言たりとも無駄なところがない、おそらくオバマ大統領も嫉妬するであろう、惚れ惚れするできのものだ。
本当は美しい文章の流れを損なうことなく、全文掲載したかったのだが、著作権上の引用の範囲を大幅に超えた抜粋となってしまいそうなので、一部のみの引用にとどめた。興味を持った方は、彼女の評論集「世界の果てでダンス(白水社 新装版版 (2006/12))」を購入するなり、図書館で借りるなりして読んで欲しい。以下の彼女の祝辞は全てその本からの引用による。
太字はオリジナルのものではなく、myshkinによってつけられたものであることをお断りしておく。
左ききの卒業式祝辞
彼女は冒頭から、この社会で女性を含む多くの人々が使う言葉は、男性の言葉(父語)であると述べ、続けて男性の言葉とは、権力の言葉であると説明している。以下の文はその続きである。
今、みなさんが大学というこの象牙の塔から現実の社会へと前進し、出世街道を歩むことを私は希望しますとか、あるいは少なくとも御主人を助け、私たちの国の力を維持し、あらゆる点で成功を収めることを望みますとか言うのではなく━権力を論ずるかわりに、もし私がここで、この公の席で女性のように話をしたらどうなるでしょう?それは場違いに響くことでしょう。とんでもないことになるに違いありません。私がまず第一にみなさんに望むことは、もし仮に、もしですよ、子供が欲しいのならお持ちなさいということです、と言ったらどうなるでしょう。なにもたくさんはいりません。二、三人で充分です。可愛いお子さんだといいですね。みなさんも子供たちも食べるものがちゃんとあって、友人も、自分のしたい仕事ももてるといいですね。さて、みなさんはこういうことのために大学に来たのでしょうか?それだけのためですか?成功のほうはどうなったのでしょう?
成功とは他の人の失敗を意味します。成功とは私たちが夢見つづけてきたアメリカン・ドリームです。我が国の三千万人を含む様々な地方の人々の大半は貧困という恐るべき現実をしっかり見据えながら生活しているのですから。そう、私はみなさんに御成功を、とは申しません。成功についてお話する気もありません。私は失敗についてお話したいのです。
なぜならみなさんは人間である以上、失敗に直面することになるからです。みなさんは失望、不正、裏切り、そして取り返しのつかない損失を体験することでしょう。自分は強いと思っていたのに実は弱いのだと気づくことでしょう。所有することを目指して頑張ったのに、所有されてしまっている自分に気づくことでしょう。もうすでに経験ずみのこととは思いますが、みなさんは暗闇にたったひとりで怯えている自分を見出すことでしょう。
続けて彼女は、左利きの人間が、右利きの世界で、右利きのルールの下で、右利きと競争して生きていく必要が無いことを語る。それと同時に、右利きの世界に対抗して、左利きの世界を作ること自体が、右利きの世界の土俵に立った行為であることを説明する。そういった二分法から脱却する力、右利きの競争原理を超越する力、それこそが左利きの人間に求められる知性だと。
机上戦のごときこの世界は私たちが作り出したのでもなければ、私たちのために作られたのでもありません。そこではマスクなしには私たちは呼吸することさえできません。そしてマスクをつけてしまうと、はずすことは困難になるでしょう。ですから、私たち自身のやり方でことを進めたらどうでしょうか?みなさんがここ、ミルズでやってのけた程度のことを。男性や男性の権力志向のヒエラルキーのためではありません。それは彼らのゲームですから。男性に対抗するというのでもありません━それもやはり男性の規則に従ってプレイすることになりますから。そうではなくて、私たちとともにいる男性と手を合わせて進むのです。これは私たちのゲームなのです。大学教育を受け、自立した女性がなぜマッチョの男と戦ったり、あるいは彼に従えたりしなければならないのでしょうか?なぜ彼女は彼のやり方に従って生きていかなければならないのでしょうか?
マッチョマンは合理的でも明瞭でも競争的でも何でもない私たちの流儀を恐れています。ですから彼はそういったものを軽蔑し、否定するよう私たちに教え込んできたのです。
また、みなさんが誰かを支配したり誰かに支配されたりする必要に迫られることなく生活していくことを私は希望します。私はみなさんが犠牲者になることなどないよう望みますが、他の人々に対して権力を振るうこともありませんように。そして、みなさんが失敗したり、敗北したり、悲嘆にくれたり、暗がりに包まれたとき、暗闇こそあなたの国、あなたが生活し、攻撃したり勝利を収めるべき戦争のないところ、しかし未来が存在するところなのだということを思い出してほしいのです。
どうして私たちは祝福を求めて天を仰いだりしたのでしょう━周囲や足元を見るのではなく?私たちの抱いている希望はそこに横たわっています。ぐるぐる旋回するスパイの目や兵器でいっぱいの空にではなく、私たちが見下ろしてきた地面の中にあるのです。上からではなく下から。目をくらませる明かりの中ではなく栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。
どうだろうか。少なくとも、社会一般に抱かれている(少なくとも僕が抱いていた)フェミニズムに対するイメージと彼女の主張はまったく異なることだけは、お分かりいただけたはずだ。
僕はかつて「ゲド戦記」を読んだとき、後半での物語のトーンの変わりように大変驚いた。序盤では魔法を使い、世界の危機を救い、大魔法使いとなったゲドは、物語の終盤、魔力もほぼ完全に失い、一人の弱々しい老人として、誰にも気付かれないような小さな村で、ひっそりと暮らすことになる。そこには、手に汗握る冒険も、壮大な魔法合戦も無い。そこにあるのは、きわめて質素で、平凡な、「生活」の物語なのである。
僕はそこで、この小説は、世の中に溢れているいわゆる「冒険もの」「ファンタジーもの」とは決定的に何かが異なると感じたが、そのとき彼女、つまりル=グウィンが一体何を意図してそのような物語を書いたのかはわからなかった。おそらくル=グウィン自身も明確に何かを意図して書いたわけではないのだろうと思う。彼女は非常に理知的な作家だ。理知的な作家とは、自分の書いている文章に極めて自覚的であると同時に、自分の文章が読者に自分の意図通りには決して伝わらないことを見越して文章を書くことが出来る作家のことだと僕は思っている。
だからこそ、彼女の文章は、注意深く読まれる必要があるわけだ。
さて、僕は2007年から1年間、オーストラリアで暮らす機会を得た。
オーストラリアというと現在日本では捕鯨問題がホットで、彼らの反捕鯨的主張の根拠を「白豪主義の名残だ」とか「人種差別だ」という観点で批判する人がいるけれど、それに関してはまったくとは言わないまでも、ほとんど的外れだと指摘しておきたい。あの国は、確かに過去に人種問題に関する大変悲惨な負の歴史を持っていて、なおかつ現在もそれは解決には程遠い状況ではあるが、極東のかの島国に比べて、多民族国家であるオーストラリアの人種問題への意識は、僕のささやかな経験からではあるが、遥かに進んでいると断言できる。(教科書的知識だけを根拠に、相手のこともちゃんと知ろうともせずに批判だけ浴びせる人がこの国に多いのは、実に悲しむべきことだと思う)
実際僕は、パース、ブリスベン、シドニーの各都市に一年間滞在していて、差別的待遇を受けたことはほとんど無い。
しかしながら、アジア人がアングロサクソンの国に一人で飛び込むということは、少なからず人種の差異というものを当人に意識させることになる。全身の皮膚の表面に、自然に感覚の鋭い棘が生えるのだ。そしてその敏感な棘は、一年間消えることは無かった。少なくともそれまでずっと右利きの世界で生きてきた世間知らずの僕にとっては、そのことは左利きの世界の存在の片鱗を垣間見る初めてのきっかけとなった。
そして翌年の秋、そう北半球では春だったときに、僕は左利きになったのだ。
そのことについては具体的に語るのは避けようと思う。そんなことに何の意味も無いと思うから。少なくとも今の時点では。
ただ僕は、(それはとてもつらい経験だったけど)一度でも左利きの世界の住人になれたことを、神様に感謝したいと思う。。
どんなに想像力の豊かな人でも、自分の経験していないことについての深い理解を得ることは、とても困難なことだからだ。ましてや、僕のような一般人にとっては。
そして願わくば、その経験を生涯忘れずにいることができればと思う。
ル=グィンは、女性が知らず知らずのうちに右利きの言語を使うことを強要されると語ったが、男性にはほとんど選択の余地すら無い。
男性が「社会」で生きるということは、多かれ少なかれ右利きのルールに従うことを意味するからだ。
僕は今左利きだが、いずれ近いうちに右利きに戻るだろう。
だがそのときにも、常に左利きの人々の存在を忘れずに、そして出来れば彼ら彼女らに寄り添って生きてゆきたい。
その決意を忘れずに生きてゆくことが、僕の人生の使命だと、今強く、とても強く、感じている。
およそ50年前に最後の作品を発表して以来
自宅を高い塀で囲い
まるで彼の愛する禅僧のように
と言ったら少しばかり聞こえがよすぎて
本当のところは多分
恐ろしい大人たちに怯える無垢な少年のように
心を閉ざし
社会との関わりと拒み
バナナがどっさり入った穴のなかで
ひっそりと生きてきたサリンジャー
などというのは嘘で
実際は酒と女に溺れ
ゴシップ誌を片手に週末を過ごしていた
なんてことだったら面白いんだけどな
おそらくサリンジャー自身の意に反して
今後未発表作品が世間の目に晒されることになると思う
結局彼は生涯コールフィールドのままで
ゾーイーにはなれなかったのだろうか
もしそうだとしたら
そんな引きこもり野郎の書いた小説なんて興味がない
と言ったらやっぱりウソになる
彼のように
エゴを憎むが故に独りよがりで
純粋であるが故に世間知らずで
繊細であるが故に弱々しくて
自己卑下と自己愛の狭間で揺れ動いている
そういう作家はこの世に腐るほど居るけど
彼が特別なのはきっと
その全てにおいて突き抜けているからなのかもしれない
もしそうだとしたら
彼の後年の未発表作品は
異次元に描かれた絵画のように
僕には理解できないだろう
だけれどもそれでも読みたいと思う
そういう魔力を彼の小説は備えている
そのことを死ぬ前の彼に
誰かが一言
伝えてあげたのだろうか
知らない間に200冊の本が読めるのに
読みたい本が200冊あると
1冊の本すら読むことが出来ない
読みたい本が200冊あると
読書は読書から遠ざかって
読書は作業になる
作業は読書じゃないから
読書は読書でなくなって
だからいっそのこと
読みたい本が1冊になるまで
しばらく本を読むのをやめようかな
とか思うのと同じように
やりたいことが1つだけあると
知らない間に200のことが出来るのに
やりたいことが200あると
1つもやることが出来ない
やりたいことが200あると
やりたいことはやりたいことから遠ざかって
やりたいことは作業になる
作業はやりたいことじゃないから
やりたいことはやりたいことじゃなくなって
だからいっそのこと
やりたいことが1つになるまで
しばらく何もしないでいようかな
なんてことは出来なくて
やりたいことはやりたいことではなく
やりたいことは作業で
作業はやりたいことなんだ
ということを受け入れることが出来てもなお
やりたいことが残っているほど
自分は強い人間だろうか
なんて思っている暇があったら
とっととやりたいことをやったらどうだ
馬鹿だねえ
君は
一部の例外を除いて、いい小説は書き出しで読者の心を掴んで放さない。とか何とかいうようなことは、ずっとずっと昔に確か申し上げました。そう、いい小説は書き出しが上手くて巧くて旨いのです。(でも、たぶん逆は真ならず、です)
そんなコンセプトのようなもののもと、第二回「書き出しで見る小説論」は、日本人作家の中で2010年1月20日現在、僕が一番大好きなような気がする高橋源一郎さんのデビュー作「さようなら、ギャングたち」の書き出しを紹介したいと思います。それにしても、この企画、第二回があったとは、自分でもびっくりです。
さて、この小説、プロローグが実に秀逸で、文庫版でたった4ページですが、それだけでこの小説のバリューの1/3くらいはあるのではないかと思われるほどの出来です。たったの4ページなので、全文引用可能なのですが、1/3の価値を占める(と僕が勝手に思っている)プロローグを全文引用してしまうのは、なんか泥棒になったような気分で大変心苦しいので、読んでみたいと思った方は、ぜひとも書店でお買い上げくださいませ。
ということで、プロローグは飛ばし、第一部「『中島みゆきソング・ブック』を求めて」の書き出しを紹介したいと思います。
昔々、人々はみんな名前をもっていた。そしてその名前は親によってつけられたものだと言われている。
そう本に書いてあった。
大昔は本当にそうだったのかも知れない。
そしてその名前は、ピョートル・ヴェルヘーボンスキイとかオリバー・トゥイストとか忍海爵とかいった有名な小説の主人公と同じような名前だった。
ずい分面白かっただろうな。
「おいおい、アドリーアーン・レーベルキューン殿、貴公いずこへ行かれるのか?」
「どこへいのうとわいのかってやないけ? そうやろ、森林太郎ちゃん」
今はそんな名前をもっている人間はほとんどいない。政治家と女優だけが今でもそんな名前をもっている。
それから人々は自分で自分の名前をつけるようになった。その頃のことならわたしも少しおぼえている。
みんな、自分の名前をつけるのに熱中していた。親からもらった名前をつけている連中は役所へ行って新しく自分が考えた名前と交換してもらうのだ。
役所の前にはいつも長い行列があった。
列に並びはじめた頃恋人ができると、役所が見える頃には赤ん坊が生まれて救急車で運ばれていくぐらい長い列だった。
古い名前は役人たちが、役所の裏の川にどんどん放りこんだ。
何百万もの古い名前が川の表面をびっしり埋めて、しずしずと流れていった。
(高橋源一郎 「さようなら、ギャングたち」 講談社文芸文庫 1997年)
さて、どうでしょうか。
普通のことばじゃない。
なんか、引っかかる。
というか、ものすごく引っかかる、と思いませんか?
そしてそして、ものすごく面白い、と思いませんか?(思いませんか、そーですか…)
文庫版の解説で、加藤典洋さんはこの書き出しについて、次のように述べています。
ここで、何が普通の文章とまったく違っているかというと、ゴチックで組んだこの文章の第三行目、第四行目、第七行目は、いわば世界に新たな氷結を促すため、ここに送り込まれた先の文の文脈とはいったん切れた文で、これは、先の文脈を殺し、新たな文脈を作る、殺し屋である。
(中略)
しかし、ふつうの文ではこういうものは侵入してこないし、ふつうの小説家からはどう転んでもこういうさかのぼって殺す、まむしのような親殺しの言葉、つまり先行する文脈を受けつつ、さらにこれを殺す文は、出てこない。ふつうだと、ここは、たとえば、こうなるのである。
昔々、人々はみんな名前をもっていた。そしてその名前は親によってつけられる場合が多かった。
もちろん時には、知り合いがつけたり、その家のお爺さんがつけるなどということもないわけではなかった。
そしてその名前は、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーとかオリバー・トゥイストとか忍海爵とかいった有名な小説の主人公と同じような名前だった。
(高橋源一郎 「さようなら、ギャングたち」 講談社文芸文庫 1997年)
なるほどなるほど。そういうことだったんですね。それにしても、批評家という人たちは、何でこう分析的な思考が出来るんでしょうかね。すごいなあ。(たまに、というか多分にそれが災いすることもあるけど…)
御覧のように、この小説、書き出しから全編通して、言葉にとてもとても強い強〜い歪が発生しているのです。
だから僕には、この小説を読むのは楽しみである反面辛い作業でもあります。三部構成のうち、一部を読んだ時点で、お腹いっぱい、というか頭がいっぱいで、ニ部以降を読み続けるのは、ほとんど責め苦と言ってもいいでしょう。M的側面のない僕にとって、とてもストレスフルな小説なのです。
ところで、僕は前回、詩について幾ばくか語らせていただきました。といっても、僕には詩はよくわからないので、荒川洋治さんの言葉を借りただけですけど。
どんな趣旨だったか、簡潔にまとめると…。
散文は公共性の高い、誰にでもわかることばだ。だから、意味の伝達に主眼を置く小説は、その手段として一般的に散文を用いる。一方、詩のことばは、所有格がついた、作者にとって極めて個人的なことばであり、散文では失われてしまう作者の息づかいや思いを、生のまま表現することが出来る。しかし、それゆえに、詩のことばとは、読者にとって受け止めづらいものでもある。云々…
まあ、こんな感じだったかと思います。
さて、ここで説明した詩のことば、「さようなら、ギャングたち」で使われているとことばの特徴とそっくりだとは思いませんか。
もういちど書き出しを読んでみてください。
ね?ピッタリ(かどうかは疑わしいけど)当てはまりますよね。
実は、「さようなら、ギャングたち」は、現代詩のことばを使って書こうと試みられた小説だと言われています。というか、高橋源一郎さん本人や、偉い評論家のおじさんおばさんたちがみんなそう言っているので、多分そうなんでしょう。
ということは、この小説には、意味は、すなわち内容はないのでしょうか。だって、現代詩のことばで書かれているわけだし。
僕の考えでは、まさかのYESです。
そう、この小説に、一般的な意味での内容(ってなんか変だな…)はありません。からっぽです。
だけど、この小説には、何かがあります。
その証拠に、この小説にはリリシズムによらずに読者の涙を誘う力があるのです。これは本当にすごいことです。因みにこれは世界の七不思議の一つでもあります。
内容は空っぽ、でも何かがある。
その何かはどこから生まれるかと言えば、形式(様式)から生まれるんだと思います。つまり、現代詩のことば、テクスト、あるいはこの小説の体裁からです。
世の中のほとんどの小説は、なにか人生にかかわるようなものすごく大事な(あるいは時にはくだらない)内容があって、それを伝える手段としてことばを使います(と一般的には考えられていますよね)。だから一番大事なのは内容で、ことば(様式・形式)は二番目、ということが多いです。
実際に書店の一番目立つところに山積みされている小説のほとんどは、そうですよね。たぶん。
だけど、作家さんってそんなに偉い、人生経験豊富な、何か僕らに語る経験を沢山持っている、江原さんか教祖様か何かですか。ノン、ノン。(というか、僕はそういうのノーサンキューです)
僕は少し前まで、小説を読めば人生がわかると思っていましたが、それは大きな間違いだったんじゃないのかと最近思い初めました。
小説と言うのは、何かものすごく大事な、それこそ真理のようなことが書いてあるような気がします。一見。
でも、なんてことは無い、真理のようなことが書いてあるように読者に錯覚させるように書いてあるのだけなのかもしれません。だけどだけど、たとえ内容は偽りでも、真理のようなことが書いてあるように読者に錯覚させるようなその書き方は決して偽りではなくて、その内に何かがあるとすれば、それって正に真理じゃないですか?(あれれ、もう訳がわからなくなってきた)
何がいいたいかというと、内容より形式のが大事かもしれない、ということです。だって、小説の内容なんて、実はまとめて活字に起こしてみれば、なーんだってことばかりなんだから。
これって、いわゆる高橋源一郎さんが書くようなポストモダン文学(って何のことか未だによくわからん)だけじゃなく、考えてみれば、近代文学、例えばカフカにいたっては、明らかですが、ドストエフスキーやセルバンテスの小説にだって、当てはまるんじゃないでしょうか。例えば、カラマーゾフの兄弟は、そこに何かものすごいことが書かれているのではなく、それが何かものすごい方法で書かれているんじゃないでしょうか。(どうです、言われてみればそんな気がしてきませんか?)
じゃあ、何で小説では、内容より形式が大切かと言えば、きっと、小説で使うことばは、僕らが使うことばとなり、小説の形式は、僕らの思考の形式となるからです。そうそう、僕らはきっと小説で何か大切なことを学ぶのではなく、小説で何かの考え方、その方法を学ぶのではないでしょうか。
話が大幅に脱線してしまいました。
何でこうなるかな…。
さて、僕は先ほど「さようなら、ギャングたち」は現代詩のことばで書かれた小説であり、作者本人も、周りの偉い人たちもそう言っているから、きっとそうなんだろうと述べました。でも、本当のことを言うと、僕は内心違うんじゃないかと思っています。
そもそも「現代詩のことばで小説を書きました!しかも、これってまさか、日本で初めてじゃね〜!」なんて、無駄にかっこ良すぎて、なんか怪しいです。
確かにこの小説のことばは、現代詩のことばに似ているような気がします。でも僕は、それは結果的にそうなったのであって、意図的にそうしたのではないと勝手に思っています。もちろん高橋源一郎は執筆当時から現代詩に精通していました。それでも、僕には彼が、意図的に現代詩のことばを使い処女作を書くような理知的な作家には思えません。
加藤さんの解説にも書いてあることですが、高橋源一郎さんは、20歳のころ、過激な学生運動を行い、拘置所に約9ヶ月入れられました。そして、拘置中に、失語症になってしまったのです。その後、約10年間、今で言う日雇い派遣のような仕事を続け、言葉も、小説も、詩も、友人も失い、ひたすら孤独に肉体労働を行っていたと聞きます。そしてその後、彼は「さようなら、ギャングたち」でデビューしたのです。そんな状態の人間が、「現代詩のことばで小説でも書こうかな」なんて、往年の大作家先生ならまだしも、思うでしょうか。
僕が思うに、彼は、普通の散文が書けなくなってしまったのです。そう、ある種の病のようなものに罹患してしまったのだと思います。一見現代詩風に制御されているように見える文章は、実は彼の当時のどうしようもなく歪んだ言語観によって難産の末産み落とされた、奇形児のようなものではないでしょうか。(うん、なんかありきたりな比喩ですね…)
ということで、今日は高橋源一郎さんの「さようなら、ギャングたち」を紹介しました。
皆さんも、本屋で立ち読みをするとき、前に紹介した「蹴りたい背中」のような、すらすらと読める惚れ惚れするような美しい文書だけではなく、何か突っかかるような、読み辛い歪んだ文章を見つけたら、敢えてその小説にトライしてみるのもいいかも知れません。
つまらなかったらブックオフにでも売ればいいんですから。
(今日のぼやき:しっかし、講談社文芸文庫ってお財布にやさしくないよなぁ)
よくわからないけれど、時々ねっころがりながら、谷川俊太郎や中原中也の詩集をめくったりする。
結局よくわからない。
でも、そんなに嫌いじゃないんだよね。詩って。
まあ、よくわからないんだけど。
最近は詩を読む人なんて殆どいないだろうけど(僕も殆ど読まないし・・・)、詩をよく読む人って、本当にわかって読んでいるのだろうか。というか、そもそも、詩って、なんなの?
そんな素朴な疑問から、詩の専門家、現代詩作家の荒川洋治さんにガイドをお願いしようとおもって、「ことばのために」シリーズの、「詩とことば」を読んだ。因みにこの「ことばのために」シリーズは、他に高橋源一郎さんや加藤典洋さんなんかも書いていて、それぞれがとっても中身が濃くって面白いので、かなりオススメ。
はなしを戻して、荒川さんのことばを追っていこう。
まず最初は、現代詩の最大の特徴、改行のはなし。
詩の特徴はなんと言っても改行。でも、改行すればなんでも詩、というわけではないらしい。どうやら、いい改行とわるい改行があるようだ。
出だしから、歯に衣着せぬことばが並ぶ。
詩を書く人は、詩の中に身を置くと、その人そのものを示すようになる。その人そのものがそこに立ち現れるのは他人には迷惑な話である。文章表現というのは、できるだけわかりやすいもの、一般の規格に合うもの、人がそれを受けいれられるものでなくてはならない。そうではないものは異常とみなされる。特にいまはそう考える人がふえたように思う。詩のかたちは、あまり見たくないもの、見せられてはこまるものとなる。わかりよいことがらだけを知りたい。そういう人にとって、詩のかたちはうっとうしい。こんな例もある、と人はいうかもしれない。
鬼怒川の清流に沿う
□□旅館。
あなたの心をいやす
静かな宿。
(中略)
りっぱな行分けである。だが、これは詩を書こうとしたものではない。ただ単に、ひとつのものを説明するための文章を、行分けにして、わかりやすくしたまで。そのことを人はよくわかっているから何の警戒心も起こさない。相田みつをの詩は人気だよ、という人もいることだろう。たしかにそれは行分けのスタイルをとる。詩のかたちだ。ほとんどは二、三行の感想のようなもの。見る人が見えやすいように、行分けしたものだ。みんな疲れているので、頭をつかわなくてもいいものにとびつく。そんな現代人のためのことばだ。内容的にも表現のうえでも詩というほどのものではない。これが詩なら、むしろ読む人のほうがもっとじょうずに書けるのではないかと思われるようなもので、その点、安心できる。ことばに、個人の息づかいを感じるときの不安を、その「作品」はいささかも感じさせない。(荒川洋治 「詩とことば」 岩波書店 2004年)
耳が痛いことばだ。でも、こういうことを言ってくれる人がいるのは、なんともありがたいことなのかもしれない。
確かに僕らは、癒しだなんだといって、頭を使わなくてもいいもの、わかりやすいもの、そういうものにすぐに飛びつく。それは、もちろん、悪いことじゃない。でも、そればかりだと、やっぱりだめな気がする。これは、ことばだけの問題ではない。僕らは、使い捨てカイロみたいに、その場限りのぬるいぬくもりを消費した後、ことばを、あるいはその他のさまざまなものを、次から次へと捨ててゆく。それをずっと繰り返している。何か危険な雰囲気の漂うものを捕まえて、そいつと直面して、じっとその場に踏みとどまって考えようとは、しない。
岡本太郎はかつて、芸術は「うまく」あってはならない、「きれい」であってはならない、「ここちよく」あってはならない、そう言った。そのことばの意味は、当時はよくわからなかったが、今はなんとなくわかる。「うまい」もの、「きれい」なもの、「ここちよい」ものは、人を動かさない。人を動かす力のあるもの、それは時に、見るに耐えない、痛ましい姿をして、僕らの前に現れる。
でも、
人の息づかいを感じる詩って?
不安を掻き立てる詩って?
すぐ後に、いい例が載っていた。
例えば、こんな詩は、いかが。
「くらし」
食わずには生きてゆけない
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所にちらばつている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙
(石垣りん 「くらし」)
五木寛之さんが書いたエッセーで、戦後、たしか満州(か、朝鮮だったかな・・・)から引き上げてくるときの体験を綴ったものがあった。かなり昔に読んだものなのでうろ覚えだが、彼はたしか次のようなことを書いていた。
引き上げる途中でいい人たちはみんな死んだ。水も食料も、何もかも足りない。そういった状況で生きるためには、他人を押しのけて、蹴落として、物を奪い、どこまでも貪欲に、生きる意志がある人、そういう人だけが生き残る。他人のために物を差し出す人、人を傷つけることが出来ない人、そういったやさしい人は皆死んだ。自分は生き残った。だから五木さんは、死んでいったいい人たちに負い目を感じて生きているのだという。そんな主旨だったと思う。
今と当時では、状況は全く違う。でも、僕には、人の生きかたは、全く変わっていないように感じられるときがある。もちろん、いつもそんなこと思っているわけではない。でも、時々そんなことを考える。
僕も、動物を殺して、その血肉を食べて生きている。色々な人をかき分けて、蹴落として、時には大切な人を、あるいは自分を、「食って」、血まみれになって、生きている。そうしなければ、生きては行けない、ときがある。そして、それがどうしようもなく嫌になる、ことがある。それがきっと、「獣の涙」という、痛ましい自覚。
でも、これは、ただの僕の個人的な感想。 ちょっと抒情的になりすぎたかな。
先に進もうか。
白い屋根の家が、何軒か、並んでいる。
というのは、散文。詩は、それと同じ情景を書きとめるとき、「白が、いくつか」と書いたりする。そういう乱暴なことをする。ぼくもまた、詩を読むのはこういう粗暴な表現に面会することなので、つらいときがある。たが人はいつも「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」という順序で知覚するものだろうか。実は「何軒かの家だ。屋根、白い」あるいは「家だ。白い!」との知覚をしたのに、散文を書くために、多くの人に伝わりやすい順序に組み替えていることもあるはずだ。詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たった一人でも、その人は存在する。散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。(荒川洋治 「詩とことば」 岩波書店 2004年)
詩は、作者が知覚したとおりに、ことばが並ぶ、らしい。作者の知覚と、僕の知覚は違う。体に宿ることばのリズムも、人それぞれ。だから、僕らには、読むのがつらい。詩は、作者のオリジナルのことば。
それにたいして、散文は、みんなの共通語だ。誰にでもことばの意味が一目でわかる、それが散文。だから、散文は、意味の伝達には最適だ。でも、散文では失われてしまうものがあるらしい。作者自身の、息づかい、あるいは身体性、のようなもの、なのかな? よく、散文はことばの意味に主眼を、詩はことばの価値に主眼を置いていると言われることがある。僕にはまだよくわからない。
もう少し、荒川さんのことばに耳を傾けてみよう。
「フェルナンデス」
フェルナンデスと
呼ぶのはただしい
寺院の壁の しずかな
くぼみをそう名づけた
ひとりの男が壁にもたれ
あたたかなくぼみを
のこして去った
《フェルナンデス》
しかられたこどもが
目を伏せて立つほどの
しずかなくぼみは
いまもそう呼ばれる
ある日やさしく壁にもたれ
男は口を 閉じて去った
《フェルナンデス》
しかられたこどもよ
空をめぐり
墓標をめぐり終えたとき
私をそう呼べ
私はそこに立ったのだ
(石原吉郎 「フェルナンデス」)
(中略)
石原吉郎の詩は、唐突に「私」が出たり、唐突に「ただしい」が出たり、唐突に「なのだ」がでたりすることが多い。さきほどの「馬と暴動」もそれだ。論理ではなく感覚。だが感覚は、岩のように動かないもの、動じないもの、閉ざされるもの。そんな強さと、ゆがみがある。日本語の表現としては異常とはいわないが壊れている。
(中略)
詩は、自由なものである。それが日本語としてどう崩れていようと、乱れたものであろうと、無様であろうと、詩の世界では、ゆるされる。むしろあわれなもの、さびしいもの、どこにも行き場のないようなものにこそなさけをかける。そしてそれらを擁護する。抱擁する。それが詩のもつ、あたたかみである。まわりにあるすべてのものが信じられなくなったとき、石原吉郎には、詩のことばが見えた。
個人が体験したことは、散文で人に伝えることができる。その点、散文はきわめて優秀なものである。だが散文は多くの人に伝わることを目的にするので、個人が感じたこと、思ったことを、捨ててしまうこともある。個人の感情や、体験がゆがめられる恐れがある。散文は、個人的なものをどこまでも擁護するわけにはいかない。その意味では冷たいものなのである。詩のことばは、個人の思いを、個人のことばで伝えることを応援し、支持する。その人の感じること、思うこと、体験したこと。それがどんなにわかりにくいことばで表されていても、詩は、それでいい、そのままでいいと、その人にささやくのだ。石原吉郎の詩は、そうした詩のことばの「思想」によって支えられ、生きつづけることができた。(荒川洋治 「詩とことば」 岩波書店 2004年)
なんていい文章なんだろう。一遍の詩でも書きたくなってしまうような(ま、書かないけど・・・)、愛に満ちた、実に暖かい文章だ。
どうやら、詩は、ずいぶんと懐が深いらしい。来るもの拒まず、全て受け入れる。そういった、寛容さを、詩は持っているらしい。
でも、僕はここで、ちょっと待てよと、思う。それって、本当は、散文の、つまり小説の役目なんじゃないの?
僕の付け焼刃の知識が正しければ、小説は、その誕生当時、隙間産業だったはずだ。千年以上の歴史を持つ言語芸術、例えば、詩があって、演劇があって、それらのカテゴリーに入らないもの、言ってみれば「その他」、それらの総称が小説だったはずだ。でも、たった400年前にセルバンテスに始まった近代小説は、いつしか「小説」というひとつのジャンルを確立して、言語芸術の主役の座を奪い取ったらしい。何から? もちろん詩から、だと思う。たぶん。
かつては、詩やその他の言語芸術のただの受け皿だった小説。それが、小説というジャンルが確立したその時から、小説のかたちが硬直化し、「小説はかくあるべし」といった小説論によって、自らの表現の幅を矮小化し、寛容さを失っていったのだとしたら、それはとても悲しいことだと思う。
詩は、ことばの奇形児を、受け入れ、抱擁する。
では、小説が受け入れることができるのは、どんな人たちだろう、そんなことを考えながら小説を読むと、また違ったものが見つけられるかもしれない。
そういえばこのブログはタイトルこそ読書嫌いの人の為のブログなのですが、悲しいかな実態は全くそのようになってはいないようですね。相変わらず他人事みたいな言い方ですけど。
ということで、若干反省の意味も込めて、今日は本当に読書嫌いな人の為のエントリーを書こうかと思います。
お恥ずかしい話ですが、実は最近、「グレート・ギャツビー」という小説を初めて読みました。いや、正確には初めて読み終えました。
因みに親切な解説を付けておきますけど、グレート・ギャツビーと云えば、アメリカ文学の金字塔的存在で、文学好きを騙っておきながらグレート・ギャツビーも読んだことがないなんて、口が裂けても言えない、そんな作品です。(まあ、言っちゃってますが・・・)
実はこの本、2年(だったかな?)くらい前に村上春樹さんの新訳が出たときに買って、そのときに読み始めたのですが、何が面白いのか全然判らず、1/3くらい読んで放り出して、その1年後にもう一度初めから読み始めたのですが、同じくらいの所でもう一度挫折し、今度は英語なら面白いかも知れないと思って辞書を片手に原文で読み始めたのですが、案の定全くついて行けず英語版は放置、その間に勝手に日本語版が僕の本棚から持ち出され、つい先日それがやっと帰ってきたのを機に(その間持ち出されたことにも全く気付いていませんでした)もう一度初めから読もうと思ってページを開いたら、最初の数ページ読んだところで読了部分は殆ど覚えていることに気付き、初めの1/3はやはり飛ばすことにして、読みかけのところから残りの2/3を一気に読み終えて、嗚呼何て素晴らしい小説なんだろうと感動したのが読み始めてから2年後のつい先日のことで、その感動の余韻からかここまでワンセンテンスになってしまったのでした。(息継ぎ)
さて、その2年の間にもちろん僕にも人並みにいろいろな出来事があった訳で、2年前にグレート・ギャツビーを読み終えていたらきっと今とは違った感想をもつであろうことは当然予想できるわけですが、また一方では「つい先日に初めて手に取り一気に読み終えました」というのともまた違った印象を与えるであろう読み方に結果的にはなったのではないかと思っています。というのも、読み返して分かったことですが、僕は前半部分をかなり覚えていて、パラパラとページをめくっていて自分ではそれとは気付かず印象深く心に刻まれている言葉などを思いがけず発見することも稀にあり、僕の2年間の生活にグレート・ギャツビー前半部分は少なからぬ影響を与えていたように思えたからです。
つまりグレート・ギャツビー前半部分は2年前に僕の内部状態を変化させ、その内部状態の変化の影響は幾多のフィードバックを経て現在まで引き継がれているわけです。(理系の人は、イメージとしてはチューリングマシンのようなオートマトンを想像するとわかりやすいかも。でもちょっと違うかなぁ・・・?)
これは少し考えてみれば当たり前のことですけど、実はとっても重要なことのように思えます。僕が強調したいのは、前半部分は全く無駄になっていなかったばかりか、むしろこの本の僕の解釈に興味深い影響を与えていた可能性が高いということです。
ちょっと話がややこしくなってきましたね。
別に僕は1/3読んで2年放置という奇妙な読書法を推奨しているわけではないですよ、もちろん。
それに、なにやら難しい読書論を述べているわけでも、そう試みているわけでもありません
つまり、僕が言いたいのは、本の読み方なんて、適当でもいいのではないか、というより、場合によっては、適当である方がいいかも知れない、ということです。
あくまで私見ですが、読書が余り好きでない方に多く見られる傾向として、本の内容を正しく読み取ろうとして、中立的で透明な、雑音の無い読書を試みるために、ある種の義務感からか妙に力が入ってしまう傾向があるようです。教科書や実用書ならともかく、僕は小説に限ってはそんな読み方をする必要はないように思います。というのも、そもそも正しい解釈が存在するのかといった観念的な議論は抜きにして(まあ、無いんだけど・・・)、正しい解釈をすることなど不可能ですし、その必要もないと考えるからです。
著者の意図した読み方が正しい読み方だと思っている方は、小説というか文学全般について決定的に勘違いをしてますよ。これは断言できます。なぜかって、その作品のもつ意味が、創作者の想像を超えるという点にこそ、文学の大きな価値があるからです。こういうのをポスト構造主義のテクスト論ではテクストの自律性なんて呼んだりしますけれども、そんな難しい言葉を使わなくても言わんとしている事はわかりますよね。
「国語の授業ではちゃんと正しい解答があるじゃないか」と思っている方は、もう完全に何かに毒されてます。何にとは言いませんが。まあ、そんな人はさすがにいないと思いますけど。
ここまできて「じゃあ結局どう読めばいいんだよ?」って思ったあなたは、その発想自体がヤヴァイですね。友達にはしたくないタイプです。
なんか、だんだんと厭味ったらしくなってきました。
ホルモンバランスが悪いのか知らん・・・。
と、ここまで読むと、何か強制的に読まされる読書や、品詞一つに気を配るような精読を否定しているようですけど、別にそういうわけでもないんです。そういった読み方でしか得ることの出来ないものはあるし、それはそれでいい、ただし、常にそうでなければならないということはない、これが僕の考えです。
何より、一度手をつけたら最後まで読み切らなくてはいけないとか、正しい意味を汲み取らなくてはいけないとか、状況を細部にわたって記憶しておかなくてはいけないとか、そういった強迫観念にとらわれて本を読むのは疲れますよね。僕から見たら完全にマゾですよ、そんなの。マニアックな何かのプレイの世界です。お願いだから、もっと力を抜いてください。もっとも、お好みならばそのままでもいいですよ。
例えば半分だけ読んで、散歩しながら今まで読んだ部分について思いを巡らせ、残りの半分を想像する。あるいは、そのまましばらく忘れてしまう。最後の数ページというところまで読んで、突然興味を無くして読むのをやめる。ある本を中断して、その間に別の本を読んだり色々な経験をする。1章がつまらなそうだから2章から読み始める。目を瞑って偶然開いたページから読み始める。これ、全部OKです。
むしろこういった自然で力の抜けた読み方をしているときにこそ、何か大切な意味を見つけることが出来ることが多いような気がします。
といっても、これも一つの経験上の傾向に過ぎないみたいですね。
もう寝ますね。
おやすみなさい。
「風の谷のナウシカ」という漫画がありますね。映画版とは結末を異にする、それよりずっと長いコミックバージョンのほうです。(読んだことのない人は、遊べる書店ヴィレッジヴァンガード辺りに行けば、飛行石の近くにでも並べられているかと思いますのでどうぞ)
僕の記憶が正しければ、あの作品の最後でナウシカは、人類のあらゆる英知、過去の文明の遺産、あるいは未来への再建の鍵だかなんだか知らないが、そういう大事なものが全て入ったピラミッド型の神殿(のようなもの)を、巨人兵の放つあの謎の無敵ビームでことごとく破壊してしまうのでした。あの作品を読み終えて、当時僕がどのような感想を抱いたのか今となっては思い出せませんが、大変なショックを受けたことだけは覚えています。
さて、この「治療塔」という一応SFの体裁はしているが、どう読んでも悲しいかなSFとしては到底読めない小説を読んでいて、僕は不思議なことに、優れたSF作品でありこの小説とは似ても似つかない漫画「風の谷のナウシカ」を想起したのでした。
何故でしょうか。
と…、それをお話しする前に、この「治療塔」、どういったお話なのかを極々簡単に説明しましょう。
今からそう遠くない未来、度重なる核戦争や、過度な工業化の末の深刻な環境汚染、治療困難な病気の世界的流行等で、世界は復元不可能なほど荒廃していました。
そこで、人類の文明や種の出来る限り純粋な形での保存を目的として、肉低的・精神的に優れていると認定された一握りの「選ばれた者」が、「新しい地球」へロケットで移住を行う「スターシップ計画」が、選ばれなかった者すなわち「落ちこぼれ」を含む全世界のコンセンサスの元、疲弊しきった当時の経済状況にあって莫大な費用を掛けて遂行されたのでした。
で、ここまでは前振りで、実は物語はここから始まります。
「スターシップ計画」の「大出発」から10年後、帰るはずのない「選ばれた者」たちが突然地球へ帰ってきたのです。
地球に残された大多数の「落ちこぼれ」は、回復の見込みのない荒廃しきった地球において、彼らなりに順応を行い、なんとか命をつないできているわけです。「落ちこぼれ」にとってその作業は、物質的な側面のみならず精神的な意味でも大変な労力を伴うものでした。
森首相が説いたのは、この汚染された地球に残された「落ちこぼれ」たちには、障害者と比較されていい性質があるということだった。障害者であることに、人間的な価値はいささかも影響されない。障害を「受容」して、積極的に自分を生かそうとする道を歩きはじめた障害者には、むしろあきらかに尊敬されるべき価値がある。地球に残った者らは、「落ちこぼれ」ということになっている自分の現状について、困難な障害を持った人間それ自体を直視することから始めるように、まず積極的な自己認識を持たねばならない。(大江健三郎 「治療塔」 岩波書店 1990年)
障害者を比較として用いたのはおそらく、大江さんに障害を持つお子さんがおり、彼と共に生きた経験に喚起されたものでしょうが、何れにせよ「落ちこぼれ」にとってのキーワード、それは「受容」です。今後好転する見込みの無い切迫した状況下において、それは彼等にとることが許される唯一の建設的な精神態度でしょう。(「受容」と「諦め」は全然違いますよね)
それに対して「選ばれた者」が共有する意識は、おそらく人間存在の形跡を後世に残すことを目的とした「自己犠牲」の精神に基づく「使命感」だと思います。
そこで僕はナウシカを思い出すわけです。彼女たちが最終的にとった態度も、腐海に侵され汚染された世界と、そこに生きる全ての人間を含む人工的でグロッキーな生き物たちの絶対的な肯定であり、「落ちこぼれ」のそれとは若干意味合いが異なりますが、つまりは現状のより積極的な受容でした。そして、あくまで清く清浄な世界の到来を夢見るカルト教団風の容貌の夢想家たちの「使命感」を、否と撥ねつけたのです。
さて、ナウシカでは怪しい服を着込み、醜く皺のよった老人として描かれた文明の守護者は、治療塔ではどのように描かれていたでしょうか。実は、宇宙から帰還した彼らは汚染された地球に残された「落ちこぼれ」とは対照的に、実に若々しく快活な人々として描かれているわけです。もちろん彼らは「選ばれた者」ですから、元々肉体的・精神的に平均の水準よりは遥かに優れているのですが、しかしその点を鑑みても、どうも余りにも生き生きとしすぎている、むしろ出発前よりも若々しいぐらいなのです。(もちろんそれには、あるSF的理由があるのですが、ここではその理由は述べません)
こうなると、今まで苦労に苦労を重ね、命からがら何とか生きてきた過程で、肉体的のみならず精神的にも老け込んでしまった「落ちこぼれ」と、ある日宇宙からひょっこり帰ってきて、まるで当然のことのように出発前のような世界の中枢的役割を再び担おうと画策する、苦労の痕跡すら感じられない若々しい肉体を持った「選ばれた者」の間には、必然的に対立が生じます。そして当然のごとく、この小説は「風の谷のナウシカ」と同じように、「落ちこぼれ」の視点で語られるわけです。
そもそも人間生活から純粋分離した文明や歴史などというアイデア自体が余りにも前近代的ですし、それ以前に大江さんはサルトルに大きな影響を受けた実存主義者です。つまり、「あの」結末にぴったりのお膳立ては揃っているわけです。
ところが、結末は…。これは暇があったら確かめてみてください。現存するおそらく日本最高のアニメーター宮崎駿と、現存する日本唯一のノーベル文学賞作家(村上春樹さんはおそらくとらないでしょうから…)の大江健三郎の示した回答(?)は、少なくとも僕の印象としては異なりました。ただし、広い意味ではやっぱり同じことのような気もします。しかしながら、僕にはやっぱり大江さんのほうが一枚上手かなと思えたこともまた事実。
でも、読んでいて面白いのは絶対にナウシカです。その点はお間違えのないように。








